高松丸亀町商店街G街区
高松丸亀町商店街G街区第一種市街地再開発事業
工事中はご迷惑をお掛け致しまして、誠に申し訳ございませんでした。

由緒ある2つの神社

亀井戸水神社
亀井戸水神社旧観 亀井戸水神社完成予想模型
亀井戸跡(高松市教育委員会設置看板による)
生駒家四代高俊のとき、伊勢藩士西島八兵衛によって岩清尾山魂の東西に分流していた香東川の流れを西側に合流させた。このとき城下町の給水源として給水池や井戸をつくった。その後、高松城下の飲料水が乏しくなったのを心配して、高松藩初代藩主松平頼重は正保元年(一六四四)水源七ヶ所を選び土管、木樋、竹管を埋めて水道をつくった。この亀井戸はわき水のでる穴が甕形の穴なので甕井(亀井)霊泉と呼ばれ、現在の亀井町という地名の由来になりました。その大きさはほぼ東西十八メートル・南北三十六メートルあり、土地の人々は井戸と呼び、主として高松市の東北部に給水したという。その井戸のそばに、頼重は水神社を奉り敬神した。祭神は伊弉册命の御子である水波能売神である。香川県中央都市計画事業復興土地区画整理事業の施行により、昭和三十三年(一九五八)七月十一日から地番の表示が現在の鍛冶屋町に変更になる。

水波能売神(ミズハノメ)
ミズハノメは、日本神話に登場する神である。古事記では弥都波能売神「みずはのめのかみ」、日本書紀では、罔象女神「みつはのめのかみ」と表記する。神社の祭神としては水波能売命などとも表記される。淤加美神とともに日本における代表的な水の神(水神)である。神名のミズハは「水走」と解して灌漑のための引き水のことを指したものとも、「水つ早」と解して水の出始め(泉、井戸など)のことともされる。

石碑(旧態) 碑文(拓本)クリックで拡大します。

碑文(一部表記できない漢字は、近い漢字を当てはめています。)
解説(高松市水道史より)
高松市街の中央に霊泉があり、この水は甘くかつ清くて、いまだ涸れたことがない。寛永十九年(一六四二)四月、高松藩始祖松平頼重はこの地に封を受け、町の人々が病んで苦しんでいるのを憂い、それは城下町東半分の民家の飲水が乏しいので暗溝で分水して飲水・すすぎに用いさせた。これは正保元年(一六四四)四月のことであり、以来二百五十年、その潤いを受ける者は、およそ二十ヶ町である。古老がいうには、昔は香東川がこの地の中央を貫流していて、当時は霊泉も川の東堤の下にあって、田の灌漑に用いられていた。天正十六年(一五八八)に生駒親正がこの地を治めてから、川の流れを香西郡に移した。今の香東川である。しかし霊泉は依然ここにあった。また聞くところでは、神亀が出て游ぐゆえにこの泉を亀井という。泉の広さは、東西九間(十六・四メートル)、南北はその2倍あり、浮き草が群生して虫や魚の住みかとなって、飲水にすることができなくなってしまった。これは泉からわき出る水が多く、使用する者が少ないから、常に汚濁しているのである。明治十六年に水利土功会を創設し、各町の分水地区から議員を選任し、その工事の協議をしばしば行ったが、水量が多いから改築して縮小すれば、もとのように水は清く澄むが、しかし減量しすぎて給水に困るようになる恐れもある、として協議はまとまらなかった。明治二十三年五月、余(赤松渡)が高松市長に就任し、この水の汚濁を憂い、友人や部下にも相談して施設の方法を計画して、これを土功会議員に謀ると、諸氏ももともと水の汚れを憂慮していたので、すぐに同意し、明治二十四年七月に工事に着工、幾月かかけて完成させた。泉は四間(七・三メートル)四方に縮小し、周囲を石垣で築き、板屋根で覆った。これによって水は鏡の如く澄んで注ぎ出るようになり、水量も各町で使用しても不足にならなかった。(中略)この泉を復興し、昨日まで濁っていたのが今日澄んだのは、これ高松市の隆盛の兆しであり、余は喜んでその顛末を記し、もって議員諸氏の偉績を後世に伝える。

明治二十五年に建立された『亀井霊泉碑』には、明治になって利用者が減少したことから、新井戸水源の水質が悪化し、対策として水源規模を縮小したことが記されている。平成の今日、毎年七月六日を神社の祭礼日として、高松市水道局・神社役員・商店街役員にて景仰祭を執り行い、その前日に宵祭りを周辺住民の参加協力のもと、執り行っている。

戸隠神社
戸隠神社旧観 戸隠神社完成予定模型
 高松市古馬場町に鎮座する戸隠神社は、讃岐高松藩主松平頼重公が、高松城に入封した寛永十九年五月十九日(三百三十二年前)から、讃岐松平家が信州の戸隠神社の御分室を勧説して、讃岐国の武運と領内の平安を祈るため、玉藻城内桜の馬場に祭祀されたのがその縁起であり、まことに由緒深い神社である。祭神は手力男命(たぢからおのみこと)で武勇の神さまである。 その後、天明年間に(凡そ百八十二年前)、城内から古馬場町の松平家御用商人(両替商)の伏石屋に下賜され、古馬場町の永しへの繁昌を祈り祀らんかた前に、町内の氏神さまとして百八十年間祭祀をつづけられてきたのである。伏石屋は屋号であり、苗字帯刀を許された高松きっての家格の旧家であり、明治の御一新の後は鈴木家となったのである。
【鈴木家家系図】
鈴木伝五郎   (初代の高松商工会議所会頭)
鈴木幾次郎 (初代高松市長)
鈴木 義伸 (戦中、戦後に高松市長)
鈴木 陽一 (元共同通信社の野球記者・讃岐の近衛公といわれた人)

 昭和二十年の終戦により鈴木家は財産税のために古馬場町の(空襲で焼失した)邸宅地跡を処分したが、その敷地内にある戸隠神社敷地は永久にこれを町内に寄付すると遺言した由。古馬場町の氏子総代故人古川一枝氏(故人、元高松市議・古馬場町内会長)鈴木家に出入りした側近の一人であり、前記の鈴木義伸氏(故人)の遺言を固く信じ、同じ氏子総代の一人だった寒川工務店社長と相談をして、高松空襲で焼失の儘(まま)だった戸隠神社を再建し、毎年、お祭りを欠かさず取行い、これは古川氏の歿後も、他の氏子総代の厚き信仰心と千人といわれる氏子の熱意で年にいたるまで熱烈に継続されている。
(宗教法人 戸隠神社記録綴より抜粋)

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